山椒は小粒でも <リンクラ2024年第2話感想>
今回は主に、蓮ノ空女学院一年生、徒町小鈴ちゃんについて述べたいと思います。活動記録は 5 話のほうが公開されていますが、ひとまず 104 期の第 2 話を持ってきました。
Kyo-Ryu ガール
小鈴ちゃん! 愛らしいですよねえ。
個人的には、好きな動物が「デッカい恐竜」ってところがなんとも言えません。もちろん出身地福井にちなむ生き物だからでしょうが、それ以上に大きさに憧れがあるんだろうなって思います。

ちんまいですからね、彼女。蓮には綴理や梢さんといった高身長さんが居るので、そんな中で並ぶとより顕著に見えます。よくツルむ同級生の 2 人も背が高いほうですし。
ただ、物理的な大きさ高さが羨ましいってだけの話ではなく、もう少し広い意味で大きさを見ているんじゃないかと思うんですよ。
体高十何 m、体重何十 t からある恐竜はもうそれだけで存在感バツグンですよね。徒町には、自分は何者でもないと感じているフシがあるようです。だとすると居るだけで周りを圧倒する存在はやっぱり羨ましいんじゃないかなあ。
中身が伴ってこそなのはもちろんですが、それでも一目にわかる「何者かである」属性ってあまりにも強力で、絶対的じゃないでしょうか。
逆に、自己評価の低い彼女にとって、小柄なことはそのまま自らの「小ささ」に重なって見えていても不思議ではありません。大きいものに対する憧れは強くなりそうです。
折につけて 2 m に成長すると宣言している彼女を見ていると、そのようなことを考えてしまうんですよね。
頑張る話
さて、リンクラ活動記録の第 2 話は徒町が頑張る話でしたね。
さやか先輩のようになりたいと願った彼女。特訓で体力をつけ、歌やダンスの技術を向上させ、パフォーマンス中にも周りを見る余裕まで持てるようになりました。しかし、憧れの先輩の背中を意識しすぎるあまり、ただ形を真似るに終わって、見てる人へ伝えるべきメッセージがなく、すなわち小鈴ちゃんらしさが感じられない仕上がりになってしまったようです。
そしてこれはまた、さやかちゃんの物語でもありました。

整ってはいても表面をなぞるだけの演技は彼女にも覚えのあるところです。小鈴さんの姿に過去の自分を見て愕然とし、感じたままを告げます。
スマホ用アプリ「Link!Like!ラブライブ!」活動記録 2024年第2話 PART 6 より
- さやか
- 小鈴さん。あなたには、あなたにしかない魅力があります。わたしみたいになろうとするのは間違いで、あなたらしいやり方というものが――
Twitter などを眺めていても似たような意見を見かけましたが、これはさやかちゃんのタイミングが良くなかったですよね。よりにもよって本番前日の夜だなんて、一番コンディションを整えなきゃいけない時でしょうに。
それに伝えるにしても、もう少し言い方ってものがあったんじゃないかなあ。などと、傍から見ている人間としては不要な口を挟みたくなります。
しかしあまり責めすぎるのも酷ですね。
彼女だって指導する立場は初めてです。手探りで頑張っている中、やってきたことが間違いだったかもしれないと思ったら動揺だってするでしょう。しかもその失敗というのが、自身の二の轍を踏ませたというのであればなおさらです。冷静な判断ができなくても無理からぬことだと思います。
はたして、さやかの否定を受け入れられない徒町は、反発して飛び出していきます。
否定はされたけれど
実は構図が面白いと思ってまして。
徒町に告げたさやかちゃんの行為ですが、確かに失態だったと言えるでしょう。しかし、何事にも真摯に向き合い、都合の悪いことでも、逃げたり、ごまかしたりしないのは彼女の美徳ではなかったでしょうか。
全てが徒労だったと伝えるのは辛いことです。相手にとってもそうだし、責任を感じる自分にとっては、なおのことそう。だからといって気づかないふりをしていては何にもなりません。まずは認めること。そして、改めるのならそれはできるだけ早いほうがいいと。さやかちゃんの行動は多分それが基となってますよね。真摯で誠実な態度だと思います。
結果として告げるタイミングがよろしくなかったけど、長所がたまたま裏目に出ただけじゃないかなあ。

徒町には「この人を追いかけたい」という思いがありました。その気持ちは言葉の上では拒絶されています。
しかし、さやかちゃんが出した結論ではなく、告げるに至った過程に目を向けてみてください。徒町にとって、それこそが先輩を素敵だと感じた点、惹かれた点ではありませんか。
だからさやか先輩になりたいという思いはこの件では損なわれません。ショックは受けても幻滅に繋がるわけじゃない。それどころか、思いがより強くなってもおかしくないくらいです。
実際のところは想像するしかありませんが……小鈴ちゃんが、ここで曲げちゃダメだと感じた根底には、少しは似たような思いがあったんじゃないかなあ。などと私は思うのです。
憧れを追ったから
この流れに関してはもう一つあります。
いつも間違いだらけだとの〝自覚〟がある徒町が、少なくともさやか先輩に憧れることだけは間違いじゃないと思ったわけですが。いえ、「間違いだとは思いたくなかった」がより正確な表現でしたね。
だって、村野さやかに惹かれてスクールアイドルの門戸を叩いたんですよ。その憧れが間違いだと言われて、はいそうですかと認めるわけにはいかないんです。どういった姿を目指すかという話にとどまらず、そもそもスクールアイドルをやる前提から崩れ去ってしまうのですから。小鈴ちゃんにとって譲れないポイントでしょう。
いずれにしても「憧れは否定できない」となった彼女が取った行動は、間違いでないことの証明でしたが――。*1
パフォーマンスはやっと形になったばかりなのに、そこにさらに一つ上乗せしようとしても、そうそう上手くいくわけがないんですよねえ。
しかしミスを繰り返しながらでもなんとかやり遂げ、今度は伝えたいメッセージを乗せることができました。借り物じゃない、ちゃんと小鈴ちゃん色をしたステージになって、うん、よかったね。
お話自体はスムーズに流れてしまいます。ここも(ステージで示そうと試みた彼女の熱さは別の話として)結果だけを見るとすごくあっさりしたものに感じかねません。けれども私が彼女を評価したいのは「なんとかやり遂げ」の部分なんです。
彼女の目的は憧れを是とすることでした。それをステージで表現したいとなったとき、まず必要になるのは歌やダンスといった技術的なものです。何をするにも「ライブ」が成立しないことには始まりませんから。歌って踊ってができなければ話になりません。
徒町は特訓すごく頑張っていましたよね。キツイ練習をめげずに一生懸命こなしていました。おかげで必要な基礎技術を身につけることができた。ひょっとしたら、それはやっと最低限に届いただけだったのかもしれません。それでもステージを作り上げるのには十分なものだったようです。
そうして土台となるものがあったから、その上に本来の目的である伝えたいメッセージを乗せることができたんですよね。じゃあ、なぜそんなに頑張れていたのかと言えば……?
さやか先輩のようになりたかったから。
憧れがあるから。その背中を追って、愚直にまっすぐに頑張り続けられたんです。そして、その人になりたいと願い師事し、少しでも多くのことを吸収しようと懸命だったから、得られた技術が確かにありました。
おかげで、ライブが体をなした。
おかげで、伝いたいことを乗せるための準備が整いました。そう考えると、彼女のライブが「憧れの是」を証明するに至ったのは必然だっだように思うのです。ちゃんと繋がってるんですよね。
一度は必要なことが蔑ろになっていた小鈴ちゃんでしたが、少し気づきを得ただけであるべき形に整えることができました。それは彼女が、頑張りの原動力である憧れだけは決して見失っていなかったからにほかならないでしょう。

自己評価が低くてマイナスの自信しかないのに、やりたいと思ったことに対しては揺るがないんですよね、彼女。不思議なところではありますが、間違いなく彼女の強みで魅力の一つなんだと思います。
さやか先輩の中の人も小鈴ちゃんのことを「応援したくなるアイドル」だと称していましたっけ。*2 彼女は頑張っている様子が本当に健気で、報われてほしいと思わせる力を持ってるのでしょう。
ボロボロになりながらもまた新たなバッジを手に入れた小鈴ちゃんを見て、「頑張る」ことの意味を考えさせられたお話だったのでした。
*1:深く言及しませんけど、ここで証明する手段として一度失敗してるライブを持ち出してくるのが熱いところではありますね。
*2:YouTube「2024年4月14日(日)20:00〜104期 リンクラ生放送〜ようこそ104期春の90分拡大SP〜 #リンクラ生放送ようこそ104期 (ラブライブ!蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブ)」
不安さえも ~Holiday∞Holiday~
スリーズブーケの 103 期 5 月度楽曲「Holiday ∞ Holiday」(以下「ホリホリ」)といえば、みなさんは何を思い浮かべますか。
やはり「月・火・水・木・金・土・日」でしょうか。キャッチーなサビは確かに耳に残ります。ワイパーも楽しいですよね。
それとも「安全バーは君の腕」? 先の サマステ音楽 LIVE(2023 年 7 月 29 日開催)では、花宮さん(梢)が楡井さん(花帆)の腕を実際に握っていて、聴衆からは大きな歓声が上がっていました。ええ、尊いです!
振り付けでなら「急上昇して急展開」も外せませんか。花帆さんが指で示すのを目で追う梢さん。からの、クルッとふたりが回る様子はいかにもジェットコースターが回っているのを眺めているようで楽しいですし、なにより可愛らしいです。
あとは、落ちサビの花帆さんも鉄板かも知れませんね。

はいかわいい。拍手ー。彼女のウインクにはどれくらいの人が心を撃ち抜かれたことでしょう。もちろん私もその一人でございます。
……しまった、ちょっとマクラを書くだけのつもりが次から次へと。こんなことをダラダラと続けていても とても楽しい なんのためのブログだかわかりませんね。
この歌には、初めて聞いたときから気にかかっていた箇所があります。今日はそこを中心に歌詞について述べたいと思います。
ゲージとは
ホリホリはジェットコースター*1 がモチーフの歌です。全編通して比喩的に使われていて、1 番はゲートを抜けて乗り込むまでがおおよその流れで、2 番は実際に動きだしてからの様子が描かれているでしょうか。
解釈はそれぞれかも知れませんが――「きっと」や「連れてって」という未来に対する言葉しか出てきていないのを見ると――乗って動き始めているものの、これから落ちるその直前までが描写されているのかなあ、などと思います。
2 番のこのあたりからが特に好きです。
(It's time to go) 心拍数のゲージが上がる
「ゲージが上がる」って少し舌足らずな表現ですよね。メトニミーに当たるのかな。
ゲージとは計器のことですけど、ここは「脈を計測するための器具が上方に浮かんでいく」と言いたいわけではありません。計器には目盛りが付いていて、数値を示す針なりバーなりが上へ振れていくと。その様子を「ゲージが上がる」と表すわけです。回りくどくなるためスパッと言い切ってるのでしょう。
でも、ちょっとばかり疑問に思います。冗長を嫌って短くしたというなら、そもそも「ゲージ」という語が要らないんじゃありません? ここは「心拍数が上がる」で事足りるような気がします。それでまったく意味が変わらないのに、わざわざ持ち出してきている理由はなんでしょうね。
私は、視覚的な効果を狙っているのだろうと思うんです。
心拍数はただの数(bpm)ですから、そこには大きいか小さいかしかありません。脈の速さだと考えるにしても速いか遅いか(時間の短い長い)です。
ところがここに「ゲージ」を持ってくるとどうでしょう。心拍数が大きくなるにしたがってゲージのバーって上へ伸びていきますね。位置の高い低いに変換できるのがミソで、これってスタート後のコースターがゆっくり上っていくのとイメージがぴったり一致しませんか。
実際には順番が逆で、コースターが上昇するのに呼応して緊張で心拍数が上がっていくわけです。ここにあるのは位置の上昇と、数が大きくなる比喩的な上昇の2つ。後者を位置的な上昇に変換して、前者と視覚的にオーバーラップさせるのが「ゲージ」という一語の役割なのでしょう。
鼓動が速くなる様を歌っているだけなのに、余計な一語があることでジェットコースターが昇っていく様子を想起させられます。そしてその具体的なイメージが、高まっていく緊張感をよりリアルに感じさせるように思うんです。
直接的には何も情報量を増やさないはずの「ゲージ」。不思議な形ではたらいていそうでお気に入りです。
戻れなくなったのって、今?
高まる緊張感に関しては続くフレーズも良い仕事をしています。
(Let's go) もう戻れないね Ride on! Ride on!
ここで「戻れない」と言いだすのが興味深いんです。
ちょっと振り返って 1 番を見にいくと、コトの始まる合図がすでに描写されているのを見つけることができます。
まず「ゲートが開く」。列に並んでいる途中なら引き返すこともできますけれど、搭乗口を抜けてしまえばあとは乗るしかありませんよね。さらに「ベルが鳴り響く」もです。発車ベルが鳴れば動きだしてしまうのですから、どうやったって降りられるわけがありません。
現実的な戻れないタイミングは 1 番の内に 2 度も過ぎているんです。でも「戻れない」と実感するのはずっと後の 2 番に入ってから。昇りきったここに来て、そしてレールの先が落ち込んでいるのを目前にして、やっとこ「もう戻れないね」ですって。
乗り込むときやスタート後の上っている途中はまだ考えを巡らす余裕があるのでしょう。しかしもう頂上です。降下に移ったら最後、Non-stop で振り回されるのがわかっています。その直前の「高まり」たるや、といった感じでしょうか。
回帰不能点はもっと手前にあるはずなのに、完全に逃げ場のない状況を突きつけられて初めて「覚悟を決めるしかない」となるのって、妙にリアルじゃありませんか。なんだか可愛らしく思えます。
溶けて消える
さて、私が解釈にずっっっっと(無駄に)悩んでいたのがさらに続くフレーズです。
不安さえも青の中に
溶けて消えちゃったらいいな
コアになる部分は後にしまして、まず周りから固めていきましょう。
「不安」はわかります。いくら覚悟を決めたといっても、これから上へ下へ右へ左へ一回転と振り回されるのが決定されている状況ですからね。心拍数や目を瞑りたくなる衝動、君の腕を握りしめる動きからも不安でいっぱいなのが見て取れます。
「青」は空のことでまず間違い無いですよね。ピーカンなのかなあ。*2 行楽日和に遊園地デートだなんて羨ましい。笑
そして「溶けて消える」とはまた詩的な表現で素敵ですね。
コースターが勾配を上るにつれて地面は遠ざかっていきます。座席では視線が上向きに固定されることもあって、視界にあったものがだんだん見えなくなっていく。喧騒も後ろに遠く。
地上の雑多なものが希薄になる一方で、目の前は青で埋め尽くされていきます。
この時消えていってるのは自分の周りにあったモノです。なのに、こうして周囲にモノがなくなると、不思議と自分さえも希薄に感じはじめる感覚ってありませんか?
絶対的な自己を保つのは難しくて、観測するための基準が周りにないと人間って自分を見つけられないのかな、などと哲学めいたことを考えたくなりますが、それはさておき。
目一杯に広がる青。薄くなっていく自分。まさに溶けて消えていく感触を体験しているのでしょう。ならば、この「不安」も一緒に「溶けて消えちゃったらいい」と。ゔんゔん、そうですね。
と、済ませかけたところでハタと思い直しました。
さえも
不安さえも青の中に
溶けて消えちゃったらいいな
「さえも」ってなんでしょうね。
「不安『が』消えればいい」ならニュートラルな表現ですから問題ありません。「不安『も』」でもわかる。自分が溶け消える感覚を味わっている今、類似のものを列挙する係助詞「も」は十分にはたらきます。
でも、どうしてここに「さえ」が加わるのだろうと。譜割の問題がありますし、「も」を強調しているだけかとも考えたのですが、どうにも腑に落ちなくて延々悩んでいました。
以下、ちょっと文法的な話にお付き合いください。
まず考えたのが条件としての「さえ」です。
副助詞「さえ」は「ーさえ〜したら」の形で条件の仮定を表します。十分条件ですね。それ単独で条件を満たす、そんな条件を示してくれます。「A さえあれば」と言えば、A の他には何も要りません。
しかし歌詞では「も」が一緒に使われています。単独で完結する条件の「さえ」と、他の事物の存在を暗に示す「も」。相性が悪そうなんですよね。条件は「さえも」の形では使わないと考えてよさそうかな。ボツと。
次に極限の「さえ」を見ましょう。
極端な例だったり上限・下限だったりを提示することがあります。これは「も」と併用可能。たとえば「子供で-(も)分かることだ」なら、理解力に劣る子供(=下限)を例示することで、優れるはずの大人について言外に述べることができます。 …が~なのだから他は言わずもがな、といった意味合いですね。
極限の「さえ」はあくまで例示です。そのものに焦点を当てたいのではなく、むしろ言外のことがらについて述べるはたらきをします。挙げた例では、そこには出てきていない「大人」への言及が目的になっています。
歌詞は「たら」で受ける条件節ですから欲しいのは明示的な基準でしょう。例示であり、引き合いに出すだけの極限の「さえ(も)」では要件を満たさないようなんですよね。これもボツ。
さて、「さえ」にはもう一つ意味がありまして、それが「添加」です。*3
添加の「さえ」は物事を付け加える意を表します。例えば「雨が降ってきただけでなく、雷-鳴りだした」。
類似のものを提示する意味において列挙の「も」と似ているけれど、少し違いますね。「A は~、B も~」なら A と B は並列です。「B は~、A も~」と書き換えても本質的な違いはありません。 一方で「A は~、B さえ~」は交換不可能。まず A があり、あと付けで B を加えていて、そこには明確な順序が存在します。つまり「さえ」を用いて B を述べるときには、A については完結が含意されるように思います。
これを歌詞に当てはめるなら、まず前提として何か「溶けて消え」たモノがあって、それに加えて「不安さえも」消えたらいい、と。いいんじゃありません?
「さえ」の裏にあるもの
解釈が正しいなら、私が最初、「も」の強調形だと考えたのもあながち間違いではなかった。……と言いたいところですが! 残念。それでは添加の意味を読み落としています。
添加はただの「も」や、その強調とは違います。順序があるからこそ使われているんです。
「不安さえも」の前提にあるもの、つまり先に消えてしまっている何かを、私は「自分」だと解釈しています。とすると歌は、自分というものが溶けて消えちゃってても、未だ残る不安があって――という場面。
ここで添加の意味が効いてくるのは、「自分」については話が完結している点においてです。「消えてしまいそう」でも「消えていってる」でも、もちろん「消えたらいい」でもなく、「消えちゃった」。もうそこに「自分」は無いものとして語っています。少なからずその意識がなければ「さえ」が出てこないはずです。
ここで今一度、場面を思い返してください。ジェットコースターはもうすぐ急降下に入ります。その先は君が連れて行ってくれる未知の世界ですね。
未知のものを取り入れるのに有効な手段は、一つに今までの自分を忘れてまっさらな状態で臨むことだと思います。いろんな外的刺激を浴びても、受け取る自分が以前のままなら何も変わらない。新しい場所へ連れてってもらうだけの受動的な態度ではダメで、意識して自分を変えるつもりでなくてはいけません。
だから、このタイミングで「自分」というものが溶けて消えたと、完了形で考える姿勢が光るんです。見たことない世界に飛び込んでいくのにとても好ましい態度だと、そう思うんですよね。
我ながら少々妄想が過ぎるように思いますが、以上が「さえ」についての考察もどきになります。*4 一例としてそんな読み方はいかがでしょうか。
今を生きる
さて 2 番のあとは(C メロっていうんですかね)内容がちょっと変わります。
今を 今を 今を生きる とてもシンプルなこと
いつも いつも いつも 忘れてしまうの何で
君が先導してくれるジェットコースターに乗っていたはずなのに、急に自分自身の生き方を顧み始めました。間奏を挟むためか曲を聴く分には違和感はないのですが、歌詞だけを順に追っていると、この話題の切り替わり方にはちょっと、おや?と、なりませんか。
しかし、ここで冒頭を見返して、私が歌詞を読み違えていたことに気づくんです。
「君」や「君が連れてってくれる世界」という直接的なフレーズが出てくるため、ジェットコースターは前者(もしくは両者)の例えだと解釈してしまってました。なんとなくの印象で、これは「君」の歌だと思い込んでいたんです。
けれども、歌い出しにはちゃんと「予想できない一日と君は」って出てきてるんですよね。
予想出来ない一日と君はとても似ている
例えるならばジェットコースターを見てる感じかな
思い込みがあるために私はこれを正しく読めません。ハナから主題を「君」だと取り違えているので、「予想できない一日」が比喩や比較のために持ち出された従属要素だと考えていたんです。気づかないうちに意識の外に放り出してしまってました。
「は」は主題を示す副助詞です。
(歌詞とは語順を入れ替えた)「B は A と似ている」という文であれば、その主題は B。以下に展開される話題は B についてです。A は一時的に呼び出されただけなので、連なる文の中では重要なはたらきをしません。
しかし歌詞は「A と B は 似ている」の形をとっています。「は」が受けるのは「A と B」ですから、この文の主題は A と B の両方になるんですよねえ。
ホリホリは、「予想できない一日」と「君」のふたつが主題の歌だと最初に宣言してくれていたようです。
そして、続く文でふたつの主題をジェットコースターに直喩してあるのですが、これがまた興味深い言い回しをしてありますよね。「ジェットコースターみたい」じゃないんです。「見てる感じ」と観測者の立場にいます。
「君」については妥当な表現でも、「予想できない一日」の方でこれは問題アリじゃないでしょうか。一日とは自分が過ごすもの。なのに傍観者でいては。
「予想できない」というからには、それなりに出来事が起こって、それなりに忙しい毎日を送っているのだと予想します。しかしこうして他人事のように話すところを見るに、自分の前に来たモノを機械的に処理し続けるだけの毎日なのかなあと。出来事が目の前をただ流れていくだけで、意味や意義を考えながら対処したり、意思を持って自ら行動したりしてなさそうな雰囲気です。(書いてて私にグサグサ刺さります)
この歌は、そんな自分に疑問をいだいていた、がまずありきなのかな。そこをスタートとして、君の世界に憧れ、君にいざなってもらうとするのが「Holiday ∞ Holiday」という楽曲なのでしょう。
だから 1 番、2 番で「君の世界」がどんな様子なのかを描いただけで終わらせず、C メロで内省に戻ってくるのも当然です。だってこれは自分が日々をどう過ごすか、ひいてはどう生きるかの話でもあるのですから。
案内役を君に任せてはいても、そこでどうしたいかはちゃんと自分で考えているところが好ましいですよね。主体性を手放していないのがいいなあ。
さて、この曲はジェットコースターが上ったあたりまでしか描写されていません。「君の世界」へ飛び込んだあとのことは、「きっと」などの予感めいた未来の表現しか出てきていませんね。すごくイイトコロで終わっています。実際、先がどうなるのかは分からないわけですが……。
きっと大丈夫だと私は請け合いたい。だって!!!!! これは、見てただけのジェットコースターに、同乗者の手助けがありつつもちゃんと自分の足で乗り込んだってお話なんですよ。それで十分に答えは出ているんじゃないでしょうか。
と、ああでもないこうでもないと頭を捻りつつ、最終的にそんな感想を持った楽曲なのでした。
Ride on
シメに小ネタを一つ放り込んでおきます。
(It's time to go) 搭乗口のゲートが開く
(Let's go) ベルが鳴り響く Ride on! Ride on!
1 番にも 2 番にも出てくる、「Ride on!」というフレーズがあります。
特段悩む箇所ではありませんよね。素直に「〜に乗る」で。on が取れる目的語は一般に馬、バイク、車など様々ですけれど、この場合はジェットコースターで問題ないでしょう。2 番の方は on を副詞と見て「乗り続ける」と訳しても良いかもしれません。歌詞解釈はそれで十分です。
ここからが妄想風味。
実は "ride on" には別の意味もありまして、「〜次第だ」「〜を拠りどころとする」といった感じでも使われるんですね。
- ride on sth
- (Usually used in the progressive tenses) to depend on sth ◇My whole future is riding on this interview.
(Oxford Advanced Leaner’s Dictionary 9th edition)
注釈にあるように進行形で用いられるのが常なので、ホリホリには当てはまりません。でも、こうして "ride on" のベースに「何かに寄りかかって身を委ねている」イメージがあることを知れば——。
不安だからと君の腕を握りしめるこの歌が、わずかに「エモさ」を増したようには思えませんか。
*1:私は絶叫系の乗り物があまり得意ではなくて……。今回は数少ない経験の中から、とある山梨県の遊園地に遊びに行ったときのことを思い返しながら書きました。なにぶん昔のことですから記憶があやふやで、もしジェットコースターというものに対するイメージがズレていたらご容赦ください。日本一の山の名を冠したマシンはそれはもう恐怖でした。ううぅ。
*2:「金沢の空は鈍色」と言うそうです。ストーリー本編やいつだかの With x MEETS でも、似た話をさやかちゃんがしていました。金沢は晴れの日が少ないらしいですね。彼女たちの目に青空はどう映るのでしょう。太平洋側に住む私などとは印象が違ってそうで気になります。
*3:辞書には「現代語ではこの用法は少なくなっている」(三省堂 スーパー大辞林 3.0)と出ており、私も調べるまで思い当たりませんでした……。散々悩む前に辞書引けばよかった。
*4:単語一つの使い方について、こんなに(無駄に)様々なことを思い巡らせられるだなんて、言葉って本当に面白いと思わせられました。
顔の向き <リンクラ第8話感想>
蓮ノ空は先日「DEEPNESS」のリリックビデオが公開されましたね。6 月度のバーチャルライブも素敵でしたが、こちらもとてもカッコよく仕上がっていて、流れる歌詞を噛み締めながら何度も聞く毎日です。梢さんの「I’m OK.」に込めるおもいがなんとも言えなくて好きだなあ。
これに関連して、なんとなく気になってて言語化したいなあと思っていたのが再燃したため、リンクラ第 8 話を感想を上げてみることにします。
下級生の奮闘やふたりの気持ちが重なる流れなどは「素晴らしい」の一言で済ませてしまっていいので(乱暴)、部分的に取り上げるだけとなりますが、よろしければお付き合いください。
顔向け
もう同じステージには上らないと決めていた梢と綴理でしたが、下級生に四人で立つことを提案され、どうしたものかと相談するところから第 8 話は始まっていました。
- 梢
- ……あの時の、曲。〝あの時の曲〟を、もう一度私が頑張れたら……。あなたにも、顔向けできるかしら。
- 綴理
- 顔向け? 顔なんて、そんなのいつもこっち向いててほしいけど。でも、あの曲は……。
- 梢
- ちゃんと……次こそ、ちゃんとした振りで。
ふたりの過去になにか行き違いがあったらしいことはわかっています。その直接の原因が、とある楽曲にあるらしいと知れるシーンですね。

わだかまりを解消するためには乗り越えなきゃいけない壁だし、(メタ読みをすると)タイトルさえも明かされてないこの曲が 撫子祭ライブ の目玉になることは明白です。物語がクライマックスに向かう大事なポイントの一つなのですが――。
綴理のちょっとトボけた感じが挟んでありますね。ここがなんだか好きなんです。
梢の「顔向けできる」はもちろん慣用表現です。「面目が保てる」といったような意味で使っていますが、おそらく綴理は字面通りに解釈していますね。だから「いつもこっち向いててほしい」などという、少しばかりズレた答えが返ってきます。
この噛み合わなさが笑いを誘うのかな。でも物語の進行を阻害するほどの脱線はなく、なめらかにお話は続いていくんですよねえ。
リンクラのストーリーは、こういったちょっとした笑いがところどころに入っていて楽しませてくれます。またその差し込む塩梅も絶妙ですよね。
主軸となる話だけが切れ間なくずうっと続いていくと、見てる(読んでる)方は息が詰まって疲れてしまいます。8 話のような重めの話題のときは特に。そこにクスッと笑える箇所があると一息つけます。メリハリがうまく効いてるなあと。
本筋とは繋がらない笑いのくせに馴染む形で盛り込まれていて、その様子が落語の「クスグリ」に似ているなとも思いますけれど、ここではその話は置いておきましょう。
ズレ
綴理の受け答えですが、ただの笑いにとどまらず、ストーリーの中ではたらくものがあるように思うんです。この一点を以てどうというよりは要素のうちの一つくらいの意味で。
先に述べたとおり、綴理は梢の発言を語が表すままに捉えているようです。顔向けできる/できないを、物理的に顔がそちらを向く/向かないことだと理解してそうですよね。
これには「いや、そうじゃなくて!」と反射的にツッコミたくなります?

でもちょっと待ってください。
綴理の感性が〝我々〟と少し違っている(ここではあえてこういう言い方をさせてください)のはこれまで存分に示されてきました。言葉遣いに顕著に現れていて、よく独特な表現をしています。
おかげで、花帆がはてなマークを盛大に頭に浮かべる様子を確認できますし、さやかは無条件に取り入れた上で理解に努めるも、解釈には常に頭を悩ませているようです。梢は……言わんとする事をある程度汲み取った上で、半ば諦めてもいる(いた)のかな。綴理の感性に関して完全な理解は不可能だと。
理解困難なコトガラは目立つため、〝我々〟は綴理が発信するモノばかりに目が行きがちです。しかし、その困難さが彼女特有の感性に起因するというなら、逆の場合、彼女が受ける側でも意思疎通の壁はあるはずですよね。
その具体例のひとつが「顔向け」の話なのでしょう。
言ったことが微妙に伝わってない感って、なんだか持て余します。
今回の話では、明らかにニュアンスが違って受け取られています。ただ、完全に間違っているわけでもない。人は自信がなかったり後ろめたいことがあったりするから顔を背け目をそらすわけで、ここで比喩的に使われてはいても、梢の言葉は身体部位としての顔が向く/向かないと通じるところがありますから。
大まかなところで伝わっているとなると、話の腰を折ってまで指摘するようなことでもないって思いますよねえ。しばしば起きるのなら、なおのこと。実際、梢はまったく触れずに話を続けていましたが……?
立場を逆にした場合もちょっと考えてみましょう。
綴理が何かを言うと、しばしば(綴理から見て)微妙な反応が返ってきます。伝わってるような伝わってないような何とも言えない感じの反応が。
そのとき彼女がどうするかですが、やっぱり流してるんじゃないかと思うんです。そこで梢が綴理にしていたように、大意がわかってもらえてそうならいいかと。些末な枝葉だからいいかと。だって、彼女が訂正や追加の説明を入れている場面なんてほとんど見たことありませんものね。
綴理の言語
行きでも帰りでも、どちらにしても綴理には伝わり切らない場合があって、でもそんなもので良いかで済ませ・済まされている現状がありそうです。どうしてそんなふうになっちゃってるのか。
タブン、同じ日本語を喋っていると思うから、生じる行き違いが不可解に感じられるんじゃないでしょうか。これだけ感性が違うなら、むしろまったく別の言語を使っていると捉えたほうが理解がスムーズにいく思うんです。
ひとつ日本語の英訳で例えす。
アニメなどで見かける「いただきます」の訳には、”Let's dig in”(さあ食べようか)とか、”Looks delicious”(美味しそう)などをよく見かけます。素敵な翻訳ですよね。
しかし、ここには盛大に抜け落ちているナニカがあるように思いませんか。
訳者の意図は理解できます。内容はシチュエーションにバッチリ合致してて問題ない。けど意味が同じなのかと問われれば、うーん……。「いただきます」は確かに食事前の合図ではありますけど、決して「じゃあ食べよっか」とは置き換えられないですよね。
でもしかたがないのです。英語圏には食べる前に挨拶をする文化がないので、どの語句にも対応させられないのですから。その言語体系に無いモノを変換しようとする限界なのだと思います。
綴理の場合も同じこと。

彼女が「そらまめ」と言うなら、彼女の中ではそれ以外に表しようがないのでしょう。〝我々〟のコトバにはその語の表す意味がないので、理解したいならなんとか別の表現に翻訳するしかありません。ですが元々無いモノなのですから、どれだけ頑張ってみてもニアピンにしかならない。
ちょっと話がそれますが、たまに綴理が「そうなの?」と逆に聞き返すことさえあるのが興味深いんです。反訳ができないのかなと。「訳語」の意味が少しズレてしまっているために、再対応する「原語」がなかったりするんだろうなあ、などと想像しています。
異なる語彙群で参照しあうのですからズレは不可避です。どうあってもドンピシャで伝わらないなら、適当なところで妥協するしかないんですよね。
しかし、一つ二つならさほど気にならないそれも、積み重なると無視できなくなります。浅くしか理解できないということは、付き合いも浅いままで留まってしまいます。寂しい。
みなが同じ言葉でつながっている中、ひとり違う言語を話す疎外感は少なからずあるのではないかと想像するんですよ。*1
以前、説明が下手なのでなく自分を伝えようとすることが下手だ、と梢から指摘されていました*2 が、別言語で伝えるしんどさは他者がそう簡単にどうこう言えるようなものではなさそうだよなあ……とは、個人的な感想です。*3
だからこそ「いいか」で済まさず、少しでも隙間を埋めようとしだしたのは素晴らしいこと。ドルケ結成周りのさやかとのやりとりや、「やっぱりはっきりさせる」と梢に切り込んでいった今回の件では、「先輩」としての自覚と昨年からの成長が感じられて素敵だなと。
そんなことを「顔向け」の話からぼんやり考えていました。
梢の回想
8 話はもう一つ気に入っているシーンがあります。
花帆との対話の中で自分が本当に求めていたものに梢が気づき綴理の下へと向かう、PART 5 のラストです。綴理としていたやりとりが短いカットで続いて流れます。梢が一年間を思い返している様子ですかね。

場面は 3 つあって、自己紹介と、夜通し動画を見ているところ、そして地区大会の後。標準的な演出なのかもしれませんが、これがふたりの関係の変化をよく表しているように思うんです。
最初の自己紹介シーンは、入学してスクールアイドルクラブへ所属した直後ですね。出会ったばかりの梢と綴理は向き合う位置関係にあります。続く自室でのものは、お互いのことが知れて仲良くなった後。ふたりはスクールアイドルの動画を見ていて、向いているのは同じ方向です。最後が諍いのシーンですね。意見の合わないふたりは視線を交わさない状態で描かれています。
梢視点の描写であることを踏まえると、もう少し何かが見えそうです。
出会ったばかりでまだヒトトナリを知れていないときは、綴理は顔が見えない状態で描かれていますが、一緒になってスクールアイドルを追いかける頃には、綴理の顔が見えるようになりました。そして問題の 3 枚目では、それまでずっとこちらを向いていたはずの梢が背を向けているんですよね。経緯が感じられます。
同じ方を見るようになったはずなのに、視線が一致しなくなっている。最後に向きを変えているのは梢です。ふたりが合わなくなった原因が彼女にあることを表すようですね。
さらに、梢の回想なのに自身の顔が見えていないのがまた良くてですね。自分の本心に気づいてなかった彼女を表すのにぴったりな画だと思うのです。
これらは、やっと何かに気付いた梢の、その内省を垣間見させてくれる演出でしょう。
彼女は建前を口にするばかりでガワしか見せてきませんでしたから、ここで初めて本当のウチが見えるんですよね。エピソードが切り替わる合間にちょろっと挟まるだけの短いカットですが、梢に寄り添うことができます。この後に続く綴理と向かい合うシーンに、より感情移入できるように思えませんか。
振り返ってみると
さて前節では、綴理や梢が「どちらを向いているか」が象徴的に扱われていると述べました。その演出を踏まえた上で、最初に挙げた「顔向け」の話に立ち戻らせてください。
あの時の綴理の受け答えってどうでしょう? あながち間違いではないように思えてきませんか。
- 綴理
- 顔向け? 顔なんて、そんなのいつもこっち向いててほしいけど。
何かを抱えていそうでも「大丈夫」としか言わなかった*4 梢。綴理はそんな彼女に不信感を抱いていたわけですよね。
口に出さずとも、折につけては本音を知りたい〝気持ち〟 を聞かせてほしいと願っていた。そんな綴理が「こっち向いててほしい」と言うのです。顔の見え具合で心の有り様を表す演出を見た今、ズレているどころか、彼女の心からのコトバに聞こえませんか。
ここはまた、「顔なんて、そんなの」とバッサリ切り捨てるように言うところがいかにも綴理らしくて良い! 非常にストレートですよね。梢が、部の状況や自らの立場など考慮すべき(と思い込んでいた)事柄を多数抱え込んでいたために、自分を見失っていたのとは対照的です。
そういった体裁とかは二の次で構わない。何よりもまずボクに、ひいてはこず自身に向き合ってほしい。そんな綴理の声がオーバーラップして聞こえてくるように思えたのです。
かすがい
と、以上が第 8 話の感想になりますが、ついでなので蛇足でもう一つ。

梢はやってきた一年生を「かすがい」と呼んでいましたよね。かすがい(鎹)とはふたつの木材を繋ぐための「コ」の字型をした釘のようなものです。綴理との仲を取り持ってくれたのを、その継ぎ手の役割に見立てているわけですね。
かすがいかあ。日常生活では馴染みがないですよね。私は実物を見たことがなく、「子はかすがい」ということわざでしか耳にもしたことがありません。だから即座にことわざが思い浮かびました。
まったく同じ意味で使われていますから連想は正しいのですが……。
この言い回しだと、花帆さんは梢さんの「子」ってことになります???
花宮さん(梢の CV)が、楡井さん(花帆)を「産んだ」だの「娘」だのとネタにしていることはご存知でしょうか。*5
この脚本、狙ってヤッてますよねえ。思わず「こっちでも産んでるじゃないの!!」とツッコミを入れてしまいましたよ。笑
ただ、まあ、中の人ネタはハイコンテキストになりがちですし、異物感だって否めません。
- 綴理
- かす……?
- 梢
- そこで区切らないでほしいのだけれど。
ここでは綴理のハズシを加えることでうまく世界に溶け込ませてあって、その馴染み具合まで含めて私は大笑いさせてもらったんですけど、このネタってどれくらい受け入れられているんでしょう。
そんなどうでもいいことがちょっと気になった第 8 話でした。
*1:一人で完結するのでは不十分で、「だれかと一緒に」スクールアイドルになりたいと。ずっとこだわっていた綴理の背景に深く関わりそうな要素だと思います。
*2:第 4 話「わたしのスクールアイドル」PART 2
*3:「分かってもらいたい」欲が綴理にもある前提での会話でしたから、梢さんを責めるつもりはありません。結果からみても必要な言葉でした。加えて言うなら、あの発言は梢の後悔を含んでもいましたしね。
*4:第 7 話、大倉庫で一年生に向かうシーンでは「私たちは大丈夫」と綴理も含んだ形で言っていました。隣で聞いていた綴理がどう思ったのかは非常に興味深いところです。
*5:楡井さんがあまりにも愛らしくて、自分の娘のように思えてくるそうですよ。ええ、気持ちはとてもよくわかります。(←?)